私の剣道生活「剣道即生活」剣道範士 長井長正先生
(剣道時代、1985年・昭和60年4月号、44〜53頁より抜粋)


【長井範士の略歴】大正4年8月11日、奈良県北葛城郡広陵長町で生まれる。現在69歳。奈良県立畝傍中学1年から剣道を始め、陸軍戸山学校出身の塩出宇助先生の薫陶を受けて昭和8年国士館専門学校に入学し専門家の道を志す。国土館では斎村五郎先生をはじめ、大島、岡野、小野、小川、堀口の各先生、大沢、馬田先輩などの指導を受ける。昭和12年国士館卒業とともに岸和田市の南海商業学校、兵役をはさんで奈良県立磯城農学校に奉職。戦後は大阪で種苗園芸店を開業。昭和27年南大阪剣道同好会結成。同年吉田誠宏先生の門人となり昭和54年に亡くなられるまで教えを受ける。昭和45年長正館創立と同時に小野十生先生から小野派一刀流組太刀を3年間にわたって指導を受ける。昭和46年年宗家笹森順造先生、同48年小川忠太郎先生より一刀流の指導を受ける。昭和48年笹森順造先生より長正館が一刀流道場として認可される。昭和51年大阪府剣道道場連盟を結成し理事長に就任。現在大阪府剣道連盟審議員・師範・常任理事、大阪府剣道道場連盟副会長、大阪税関師範、修道館師範、長正館館長。昭和45年剣道八段、同52年剣道範士。


1)専門家を志して国士館へ

大阪・天王寺から近鉄南大阪線で五ツ目に矢田駅がある。高架の線路の下を進行方向へ数分歩くと、左に広場があり、『長正館』という横書きの看板が見える。道場の玄関を入ると、館長長井長正範士が迎えて下さった。一刀流道場とあって、壁には木刀が掛けられ、故笹森順造先生(一刀流宗家。範士八段)の書などもかかげられている。範士は大正四年、奈良県北葛城郡広陵町で生まれ、県立畝傍中学に入学、一年生のときから剣道を始めた。

「剣道の他に書道、絵画にも興味を持ったが、いずれも中途半端でした。三年生のとき剣道初段をいただいてから、剣道一本にしぼってやりました。東京出身の陸軍戸山学校を出た塩出宇助という人格円満な立派な剣風の先生に教えられました。四年生の末でしたが、『塩出先生、私剣道が先生のおかげで好きになりました。一所懸命やろうと思っています。専門学校に行きたいんですが、どうですか』と伺った。『そうだな、お前の頭ではもうちょっとというところで高等師範は難しい。武専の方は、非常に強くて、よほどのものでなければ講習生に入ってやらなければいかん。戸山学校は斎村先生に指導に来ていただいているが、立派な先生で得るところがある。――で、国士館が創立されて間もない頃だし――お前の頭では、むしろ東京に行って、国士館でやればどうだ。入学試験は問題ないし、お前ならやってゆける』そうですか、ということで国士館を選んだ」

そして昭和八年に国士館へ入学、十二年の卒業まで国士館で専門家になるための剣道を学んだ。

「国士館生活を、一般的に言いましたら、全員が寮生活で、喜怒哀楽を共にした、それが今になって考えてみると非常に得るところが多かったと思います。剣道の技術面で言いましたら、武専と同じように切り返し、かかり稽古を一所懸命やりました。それ専門で、初年兵係は小川忠太郎先生で、ご薫陶を受けた。基本に徹したご指導で、試合は全くやらない。例えば、たまに東京の学連の試合に行きましても、負けたことを言わずに、突いてやったとか、そういうことを自慢している。非常に大らかな、大技のしっかりした稽古で、それがよかったなと思うわけです。精神面では、やっぱり国士館そのものの正義、堅牢、見識、気合というのが学内にみなぎっておりましたし、剣道で言えば斎村先生を中心に、大島治喜太先生、岡野亦一先生、小野十生先生、小川忠太郎先生、大沢衛先輩、馬田誠先輩などから、一味違う立派な剣風をいただいたんじゃなかろうかと思います。私が四年生の卒業時から、堀口清先生のご指導もいただきました」

2)客に教えられる

範士は、卒業すると大阪府岸和田市の南海商業学校に奉職するが、昭和十四年一月、奈良連隊に入隊し、予備士官学校を経て渡満した。昭和十七年に除隊、翌十八年に奈良県立磯城農学校に奉職して間もなく応召、陸軍大尉で終戦を迎えた。戦後は昭和二十一年、大阪に出て種苗園芸店を開業するのであった。

「戦後、剣道復活まで見通しが暗かったので、今までの職を思いきって放棄して大阪に進出し、かつて農業学校に奉職しておりましたとき勉強した経験を生かし、種苗園芸店を開業しましたが、失敗の連続でした。そのため、およそ二年間は赤字でしたが、幸い家内が学校に勤めておりましたので、その給料で何とかまかなっておりました。そのうち、熱心なある農家の方が皆に『長井は真面目に一所懸命やっとる。われわれでええタネ採って、それを売らしたれ』と、宣伝してくれ、三年目にして漸く店も芽生えてきました。

同業者も、初めは武家の商法勤まらずといった感じで見つめていたようでしたが、私が商売人になりきって努力している姿に、みんな見直していただき、よいタネを廻してもらうようになり、自然に皆の信用も厚くなって店は栄えてきました。しかし、この陰には家内の並々ならぬ内助の功があり、今なお忘れることはできません。学校から帰るなり、早速モンペにはきかえ『さあ、剣道に行ってらっしゃい』と、バトンタッチしてくれたものです。それで私も、家内の帰る時分にはちゃんと夕ご飯をこしらえて待っていました。でも当初は私もまだ若かった。今だに覚えておりますが、お客さんに大変申し訳ないことを言ったものだと、つくづく反省していることがあります。

ある朝、市場の帰りに店に立ち寄ったお百姓さんが、いきなり『おい、お前とこの水菜のタネいいらしいが、一合何ぼやね』と聞くので、『そこに書いたるやんか』とおうむ返しに答えたものです。というのは、このお客は大変こうばいきつく、いいタネと聞くと、どこへでも出かけて行って、それだけ買って他のタネは買わない。しかも値切るという人だったので、そうどなったところ『そら判っているわい。念のため聞いただけやんか』というので、『あんたの眼の前に書いたる通り百円や、ええタネやからまけられへんで』というと、『そうかそれやったら仕様ない、三合量れ』と。

やがてその客が帰ったあと、先に来て店の奥で雑談していた常連のお爺さんが、『長井さん、あんたには険がある。その険を捨ててええ商売人にならな、あきまへんで』と言うので、『剣道は好きやから止められまへん』と答えますと、『その剣と違うがな、あんたの顔に、まだまだけわしさの険がある。その険を捨てなはれ、というこっちゃ』と言われ、また『ついでにいうたるけど、あの人字が読めんのやで』と忠告してくれたとき、私は初めて気がついた、なんとひどいことを言ってしまったんだろうと。

自分のひとことが、どれだけあの人の心を傷つけたか、と思うと、えらい申し訳ないことを言ったものだと慚愧に堪えませんでした。それと同時に、常連のお爺さんに、いいことを教えていただいたことを感謝し、幾重にもお礼を申し上げました。あの三波春夫じゃないけれど、お客さんは神様です。お客さんがお金を持ってわざわざ店へ買いに来て下さる有難さを忘れて、つい自分だけの調子で高飛車に出たのは、神様を冒涜したことになると、已れの罪深さに愕然といたしました。

それ以来、私は険を捨て、何事も相手の立場に立って考え、応対するよう努力しました。やがて小野十生先生から、小野派一刀流のご指導をいただくようになってからは、一層商売の大切さを知るようになりました。損したくない、儲けたい、値切られたくない等のわが心を切り落し、ひたすら客の心を読む、所謂読心術、これは一刀流組太刀の中の拳の払いの形の中に、その精神のあり方、が組み込まれているのですが、その大切さを知り、剣道は実社会に溶け込んだものでなけれぱならない、ということをつくづく白覚しました。一刀流の切り落しの一つ勝、乗突、鍔割、浮木等の形を通じての精神がどれほど商売に役立ったか、また商売で勉強したことがどれだけ剣道にプラスになったか計り知れません」

範士は、種苗園芸店を営みながら、昭和二十七年には田辺署の道場を借りて、南大阪剣道同好会を結成し、剣道を続けていた。

3)吉田誠宏先生との出会い

昭和三十五年のことであった。範士は吉田誠宏先生の門をたたくことになった。

「商売がうまくいかず、また同窓の剣友達が夫々専門の道を歩んでいる姿を見るにつけ、何遍か商売を止めて、本職の道に入ろうかと悩んだものでした。その時、救っていただいたのが吉田誠宏先生でした。かねがね斎村先生におうかがいしていたんです。大阪には吉田誠宏という立派な先生がおられる。特に精神面での修養は、吉田さんの右に出る者はあるまい、折りを見て指導を受けなさい、と言われておりましたので、急遽吉田先生の門をたたきました。昭和三十五年の夏でした。吉田先生は屋敷内に広い畑を持っておられ、自給自足の生活をしておられたので、ちょうど幸いと、行くたびにタネや苗を持って行っては教えを乞いました。ある日のこと、このタネは今播くのですと偉そうに言うと、『そうじゃない。タネを預けるんだ。太陽の恩恵を蒙って土に一時タネを預けるんだよ。そしてわが排泄物を土地に還元して育てあげ、食べさせていただく。これが剣道家として考えねばならんところ。よく判ったか』と教えられ、先生の思慮深さに敬服いたしました。

またある日、朝早くお訪ねすると、吉田先生は上半身裸で、人形の打ち込み台に向かって打ち込みをしておられました。『先生おはようございます』と言うと、黙っておられる。この爺いめと。するとピンと感じるんです。そして『もうちょっと待っておれ、そこへ正座して』と。時間にしまし

たら五分かそこらだったと思いますが、三十分も一時間も待たされた気がしました。『お前判らんやろけどな、一つ言うと、この人形は無想や、無念無想ということは何も考えておらん。その無念無想の人形を、対々で、無念無想で思わずに打てるか』と。はあーと感心いたしました。またある日のこと、真剣でハッ、ハッと刀を振っておられた。そして『長井、本当に斬れるというのは、空気のサッという音で判るんだ』と。偉いことをいいよる人だなと思いました。

私が、五十年の夏還暦を迎えたとき、内祝と秋ダネや苗等を持って、早速吉田先生宅へ馳せ参じ、先生私も六十になりました、と挨拶した途端、『阿呆んだら、思いあがるな』というなり、一発ごつんと頭をなぐられました。私は何が何だか判らず、こんなにちょいちょい来て、鄭重に仕えているのに、何んで阿呆といって殴らんならんのや、と一寸頭に来て先生を見上げましたところ、『長井、今俺とお前と年がどんだけ違うんや』と。『先生は今八十五歳だから、二十五歳です』と答えると、『そうだろう。お前、がオギャーと生まれたときは零歳で、そのとき俺は成人式もとっくに過ぎ、二十五歳だ。赤子の手を捻るという関係は、なんぼお前が年いっても同じことだと考えよ。今お前を殴ったのは、お前の心の奥底に、私もやっと六十となり、これから剣道の本当の道に入ろうと思うと、いい恰好で言ってるつもりだろうが、俺から見れば、六十どころかまだ赤子同様、剣道は何も判っとらん。思い上ってはいかん。だいたい今の若い者は先生より先に段が上がると公の場は仕方がないが、平気で上席に坐り、偉そうにのさばっている。剣道を志す者は大いに反省せにゃならんことだ。長幼序、これを忘れては剣道の道から外れる。そこをお前に一生を通じて忘れることのないように、お前の還暦を記念して、愛のげんこつをくらわしたんだよ。判るかな』と、懇々と諭され、私は今さらながら、わが身の未熟さを思い知らされました。

それ以来、時々吉田先生に連れていってもらい、八幡の円福寺へ坐禅を組みに行きましたが、道中よく話された中に『この頃中学生が一年やそこらですぐ気安く初段を受けにゆくが、禅ではそんな甘いもんじゃない。打てば鳴る、打たぬ片手の音を聴け、と。これは剣道でいうなら、先ず入門の初段の問題で、禅ではこの問題が一年の公案だ。どうだ判るか。如何に剣道では初段を安易に考えているか判るだろう。現在の剣道では悩むばかりで、つまるところ禅に頭を下げにゆくのが落ちである。俺の今の心境で言うと、剣道は禅より上でなければならんと考えている。剣は剣、禅は禅である。剣禅一如は悟りの境地にいったときにいう言葉だぞ。剣道は相手の打ちに応ずる技を修行するのである。あの沢庵と但馬守の話、知っているであろう。沢庵に但馬守が剣道の極意を見せてもらいたいと言われたとき、但馬守は小雨の降る庭先の桜の木の枝を、雨にも濡れず、早わざで漸って見せた。その後で、沢庵はやおら立ち上がり、先ず傘をさしてゆっくり歩いていって枝を折り、少しもそつのないようにして座敷へ上がって言うには、「貴殿の早わざもよいが、し損じることもある。早わざばかりが極意ではなかろうが」と言った。これから剣禅一如という言葉が始まった。つまり剣の方から遠慮して禅を尊重していった言葉だ。だから禅より剣が上であるためには、もっと修養を積まねばならないんだよ』と、言い聞かされた。私は、吉田先生から数えきれないほどの精神面のご指導をいただきました」

4)一刀流を学ぶ

昭和四十五年四月、現在の東住吉区矢田富田町に土地をもとめ、道場が建設された。弟子たち皆が集まって創った道場であった。そして、弟子たちが考え出した道場名が『長正館』であった。これは、長井長正の“長正”をとったものであった。長く正しく生きるという意味が含まれていた。範士は、この道場で大人の弟子や少年たちの指導にあたることになった。その頃であった。恩師小野十生先生が訪れて、一刀流の形を教えることになった。

「私の一刀流の修行は、まだ十五年しか経っておりませんが、今になって本当に一刀流を習ってよかったと思っています。初めは、道場を開いたがために、はるばると東京から小野十生先生がやって来て、なんで一刀流を習わんならん。国士館も出たことだし、八段にもなったし、と心中いらんことと思って悩み続けておりました。それから数日経って、吉田先生を訪ねましたところ、『長井、いったいお前は国士館で何を習って来たんだ。今のお前には蹲踞してから立って構えたときの理想がない。お前に一刀流を授けたい小野君の気持は到底判るまい。古流の形をやらねば、お前には本物の剣道が判ろうはずがない。小野君の道に対する温情に、涙を流して報恩の誠を尽せ』と言い聞かされ、初めて眼が覚め、それ以来小野先生は、私のために、いやこの長正館の道場へ、一刀流を残しておきたい。それよりも、もっと広く関西に一刀流を残しておきたいという先生の奥深い、しかも偉大なる温情に感極まり、以来三年間、店もそこそこにして、組太刀の稽古に励みました。しかし、初めのうちは組太刀の形のあと、やれやれと思って帰ろうとすると、先生は黙々として面をかぶっておられるのです。私は形だけでもふらふらなのに、まだこれから稽古かと思うと、気が遠くなってしまいました。それでも仕方なく、面をかぶって先生に切り返し、かかり稽古をお願いし、やっと放免され、夢遊病者のように、綿のようになった体を引きずって店も閉めたまま夕方の稽古まで寝込んだことが何回もありました。

組太刀五十本やれるようになってからは、不思議なくらい、小野先生から逃げよう、逃げようとしていた気持がなくなり、素直な気持で、むしろもっともっとやってもらいたいという興味が沸いて来て、楽しくなってきました。それから、いつしか百本、打方、仕方ともやれるようになりました。その頃、初めて小野先生のご温情にそむいた数々の無礼な心がけに対し、申し訳ないという気持が胸一杯にこみ上げてきたのです。そして、このご恩にお応えするためひたすら一刀流に励み、先生に安心してもらえるようにと努カしました。四十八年の早春、小野先生は私の前向きの熱心さにほだされてか、私を連れて笹森順造先生を訪ね、親しくご指導いただくよう頼んで下さいました。笹森先生は、『長井さん、小野先生はあなたが道場を開かれた機会にしばしば出向かれ、あなたを見込んで一刀流を授けに行かれた。その有難いお気持をよく体得して、どうかしっかりやって下さい。そして小野先生のお慈悲に応えて精進して下さい。それがまた一刀流の精神なのです。私も及ばずながらお力になりましょう』と。

道場で精神面、技術面の貴重なご指導を受けまして、笹森先生の人品の備った近寄りがたい尊厳なご容姿の中にも、切々と迫る温顔からほとばしるご教訓に、私はただもう夢中でした。先生は、『あなたの稽古もさることながら、どうぞ後進に幅広く一刀流を広めて下さい。それが何より小野先生に対する親孝行ですよ』ど言って下さいました。このお言葉は、今もなお脳裏に深く染み込んで、終生忘れることのできない感激のひと幕でした。それ以来、上京のおり、時間を作っては笹森先生をお訪ねし、貴重なご指導をいただきました。先生が米寿の祝いにと学連のOBからもらわれた一刀流の大太刀と小太刀を私に下さり、『これは小野先生と私だと思って、幾久しく稽古に励んで下さいよ』と励まして下さいました」

その後、長正館は小野派一刀流の道場として認可を受け、長井範士によって関西方面での一刀流指導が続けられている。

「それにつけても思い起こしますに、恩師小野先生は惜しくも昭和四十九年三月十五日にお亡くなりになり、翌五十年三月十六日の一周忌法要のときは、集まられた石田和外先生(当時全剣連会長)、小川忠太郎先生(現範士九段)、玉利先生(嘉章現範士九段)始め、多数の範士の先生方の前で、私は万感胸を打ち、思わず泣いてしまいました。計り知れないご恩にもかかわらず、一刀流を習い始めの頃、心が逃げていたわが身の不甲斐なさを、ただ申し訳なくお詫びする気持で胸が一杯になり、感極まったものと恩います。また、五十一年二月十三日には、宗家笹森順造先生がお亡くなりになり、二十二日の青山学院講堂での告別式に馳せ参じ、ご冥福をお祈りし、堅く心に誓って一刀流に精進し先生のお徳を大阪に広むべく決意をして、別れを惜しみました。そしてまた三年後の五十四年に恩師吉田誠宏先生がお亡くなりになり、私は自分の心の支えを失い、暫し絶望して口もきけなかったことがあります。

吉田先生が大阪税関の師範を私に譲られたときのことです。『長井、お前俺のあとを継いで税関の師範にするのは、俺が年老いたからではない。俺では税関の剣道部の者には高度なので、彼等の稽古にならん。お前なら、岡本やら八木、熊岡などちょぼちょぼだから、お前の稽古にもなるし、彼等の稽古にもなるからなんだ。それが判らずに、ただ光栄だの、有難いだのと簡単に思い上がってはいかんよ』と。このお言葉はきつく聞こえるようですが、私を思って下さる温かいお気持からの発露であると今もなお先生の精神を受け継いで、私の剣道の糧としております」

「話が前後しますが、四十八年十一月に恩師小川忠太郎先生にご来館いただき、一刀流をご指導い.ただきましたが、実は小川先生が、長井が小野先生から一刀流を習ったが、その後悪い癖がついてきてはいまいか、とご心配になり、来ていただいたわけで、先生のご指導は一段と厳しく言語に絶するものがあり、ふらふらで全く顎が出っぱなしでした。しかし、そのとき正しく厳しくご一指導いただいたお陰で今日があるので、最後の締めくくりのご指導をいただいた小川忠太郎先生に深く感謝いたしている次第です。この上は、今は亡き吉田先生、小野先生、笹森先生方と、じっと見守っていただいている小川忠太郎先生のご恩情に、ひたすら報恩の念を持って、一刀流に精進し、一刀流を通じて本物の剣道をめざして、あくなき修錬を積み重ね、誠心をもって先師に報いたいと思っております」

5)一刀流の真髄

各流派において、組み太刀がたくさんある中で、その真髄、精神は一本目に集約されていると言われる。範土にそのことを聞くと、木刀を持ってきて、構えから大きく振りかぶって面を打ってこいとおっしゃる。道場に立って、面に打ち込んでゆくと、あっという間に打ち込んだ木刀は落とされ、こちらの面が打たれている。

「とにかく、先ず具体的には陰刀の構え。これは敵の構え(仕方)を押さえながら、常に進みとらえる心を秘蔵する構えである。陰刀の尊さは、刀と足遣いに真実を蔵し、相手に知らさずに勝つところにある。その打方の位が陰刀で、陰の構えで進む。そのときに打たれたくない、負けたくない、殺されたくないという心を切り落して、心気でグッと攻めてゆく。打方は相手を見据えて生死の間に入るや、ここぞとばかり大きく振りかぶって、やや袈裟切りに相手の面を打ってゆく。するとその上太刀をとって、上太刀というのはまだそれより倍大きく振りかぶるような気持ちで相打ちで切り落すことで、左の鎬で摺り落して、そのまま一拍子で、相手が遠ければ喉を、近ければ面を打ってゆく。これが『一つ勝』。一刀流は実は百七十本あります。主に私は百本教えていただいたんですが、一刀流は切り落しに始まって、切り落しに終るんだと。すべて切り落しだと。だから自分というものを、切り落すところから始まれということです。二番目には、その応用として出端を、心か起こるときに、ズッと乗る。もう少し段階をおとしますと、相手が来るときに、相打ちにゆく。乗り面というのですが、来たらズバッとゆく。もう剣道はそれが真髄だということを一刀流は教えています。古流の形には、何本目何という名称があります。その名称の中に精神があります。今の日本剣道形は各流をミックスした非常に立派な形でありますが、名称がつけられない。そこに少し難点があります。

私は日本剣道形に名称をつけて、一本目は『相上段抜き面』、二本目『小手抜き小手』、三本目『突きの応じ返し』、四本目『脇八相巻き返し面』、五本目『表摺り上げ面』、六本目『追い込み裏摺り上げ小手』、七本目『抜き打ち胴』と呼んで、この名前が精神であると教えています。例えば一刀流には、一つ勝、乗突、鍔割、浮木(うつき)というように名称がついています。浮木というのは、流祖伊藤一刀斎が、水面に切りたての丸い原木が浮いている。それをじっと眺めていた。そしてそれを突ついてみた。廻ってポコッと水面に浮いてくる。また反対の端を突っくと、廻って浮いてくる。強く突くと、くるくると早く廻りながら沈んで、ポコッと浮いてくる。それを見てハッと気がつかれて、これを剣道の大事な仕太刀に利用しようと。いわゆる仕太刀の剣が浮いている木であると。したがって相手がポンと叩いたら、パッと剣を中心につける。これを浮木と名づけようと。浮木は『不争而勝 上乗之太刀』と教えられています。例えば、具体的に申しますと、浮木を多年やっておりますと、相手が三殺法で気を、剣を、技を殺してパッと来たときに、ピッと中心にゆくわけです。

このことで私も非常に感銘を受けまして、感心をした話があります。それは、重岡f範士が、いよいよ故郷の鹿児島に帰られるときに、ある少年大会でご一緒させていただきました。『長井、お前一刀流の中に浮木というのかあるが、あれを一遍説明してくれよ』と。そして、『俺はだいたい判っているのだが、警察学校の教授しておったときに、相手が竹刀をパンと叩いたら、その叩かれたのを利用してパッと中心につける。相手はウッとくるんじゃなかろうか。叩かれたらパッと中心につけろというんだが、どうだ』と。先生、浮木はそれより以上ですねと。浮木は古流の形を何回も稽古していると、手首が動いてくれるんです。だから叩いたら自然に意識が働かずに、思わずフッと中心につくように…ということは、自分は無だと、平常心だと叩かれたということも思わず、勝手に覚えている。体得でありますと。その浮木を初めて編み出されだ伊藤一刀斎は思いもつかない、偉いなと感銘したのです」

「また一刀流をやってから、ある日突然に、相手が来たとき思わずバッと打ちが出たんです。自分でもびっくりしましたね。今の剣道は、打ってやろう、打たれまいと思ってやっています。思って打つんではなく、思わず打つ。もっと言いますと、吉田誠宏先生が亡くなられる少し前に、米寿のお祝いをされて間もなく、『長井、隙というのは、相手をグッグッと攻めて相手に隙を作らせるやろ。その隙を打つというのは、まだ初歩の段階である。相手の隙に誘われて、思わずそこへ行った、それが本当の剣道なんだ。思って打つんではない』と。

『もう一つ言うたろか』とおっしゃるので、先生、それは待ってください。それは私一刀流で教えられています。それは誰でも打ってゆく先に隙ができる。その隙を打つと、一刀流は教えらていますと。一刀流も、新陰流もそうですけれど、先に攻めて敵をおびき寄せて、先を起こさせ、その先を打つ、これが先々の先にあたると教えられております。竹刀剣道でいうならば、その起こり頭を打つんだと。それを勘違いして、来るのを待っている。来たらいってやろうでは遅い。先に攻めて、そして敵が先に来るところを先に打つと。剣道はこれしかないということです」

6)己れの心を切り落す

範士は、一刀流を学ぶことによって、計り知れないほどのものを得た。本当の剣道とはこういうものだと。

「一刀流をやれば、年がゆくにしたがって、ますます冴えてくるのではないかと思います。具体的に言いますと、攻めてゆくだけで、自分の調子で小手、面とか打つ。六十代ぐらいまではそれでいけるでしょうが、そんなものではありません、昔の真剣勝負は…。話は変りますが、中倉範士が、体さばきの大切さを書いておられました。これをやることによって、今日年老いても楽に稽古できるということを。やっぱり九段の先生は違うと思いました。私思いましたのは、私自身、左足がいかに大事であるかということを身をもって体験しました。それは、おととし家内が箱根へ行ったとき、御殿場の洞窟が凍っており、滑って右大腿骨を複雑骨折してしまいました。お前よく考えて見い、ころんだとき左足滑ったのと違うかと。いろいろ考えてやっぱり左足で滑ったと言います。左足で滑って反対の右大腿骨を折りました。

研究してみると、体育でヨーイドンとダッシュするときは左足です。剣道をやる者は左足、左手というのは、已を守るもので、大切なものなので、左拳は中心にとる。右手右足は攻撃の手と足でというのは、実はそうではないんで、これを助けるために、いかに左足が自由でなければならないかということ。例えば、野球のピッチャーがボールを投げるとき、手首と左足が中心になる。いろいろ研究してみると、左足をいかに有効に使うかということが大切なことか判りました。だから、なぜ剣道形も左足でサッと…。もっと言えば、何で一本目、二本目、三本目が先々の先で、同じようになっているのに、四本目は後の先なのだと。六本目、七本目もまた後の先かと。素人が形を見ると同じように打太刀が負け役で、仕太刀がいつも勝たしてもらう、その疑問が起こらないか。

第二の疑問は、後の先というのはどういうことなのか。それは体さぱきで勝っているんです。一刀流でいいますと、左足は大事な己れを守るために、左足で体さばきして打っているのが、後の先だということなのです。絶対左手を自分の中心から離したらいけない。左足と手がいつも一緒で、後の先というのは、左足の大切さを、体さばきの大切さを教えているのです。一刀流を学んで、わずか十五年ほどですが、あらゆることを命がけで作った形を研究し、おやじが言わんとして、言われなかったものを、顔色を瞼に浮かべながら、一所懸命研究しなければいけないと。それが、先祖に対する感謝報恩の念である。そこに一刀流の切り落しの思想があります。いい恰好をしたいという自分の欲望、心をまず切り落して、重岡先生の浮木の話ではありませんが、スパッとゆく。そこまで形をやらなければいけないと思っています』だから、私のところでは稽古前には必ず、稽古時間の半分は形をやっています」いろいろな角度から研究し、そして結局は一刀流に帰ってくる。また、範士は剣道の原点に帰り、それを現代剣道に応用することを説く。

「剣道はいかなる時代でも、その時代に応じた剣道でなければならないというのが、私の持論です。剣道では仕太刀が先生の位の打太刀に対して先に自分の調子で打ちにゆく形はないんです。どういう技を、千変万化の技を打方が使っても、必ず先か後か、必ず安心して勝たしてもらえる。剣道即実生活、まして剣の理法による人間形成の道だと言うならば、現代に即応した、必ず勝つ剣道とは、時代に応じて正しく生き抜くということと一緒であるということです。昔、ひっばりだこだった高野先生の『剣道』というご本が、今絶版になっています。その百三十五頁に、体当りは、バンとあたって竹刀の柄で、喉の下から突き上げて倒せと書いてあります。今それをやったら、暴力であるとなる。少年指導に対する体当り、中学生や高校生の体当り、大人に対する体当りは、受け方の方法が皆違うんです。元立は先生、先生は形の打太刀です。仕太刀に応じた技を、勝つ技を教えてやる。剣道は応じる技を究明すること。自分の調子で叩くのは剣道ではありません。いかなる時代になっても、それに正しく生き抜いてゆくということも剣道の仕太刀で教えています。時代に応じた剣道はどうあらねばならないか、それを究明するために一層一刀流をやらなけれぱならないという結論に達するのです。それは、切り落しなのだ、ということです」

一刀流の極意技“切り落し”その精神は範士によって、見事に現代に息づいていると、感銘を受けました。(談・まとめ編集部)

記事の出所と掲載の承認(2003年10月28日)
株式会社体育とスポーツ出版社 月刊「剣道時代」
東京都千代田区神田錦町2−9 大新ビル4F
URL  http://www.taiiku-sports.co.jp


写真館甲
長正館の資料より
長井長正「剣道即生活」
剣道日本1978年12月号
剣道日本2002年7月号
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