| 【長井範士の略歴】大正4年8月11日、奈良県北葛城郡広陵長町で生まれる。現在69歳。奈良県立畝傍中学1年から剣道を始め、陸軍戸山学校出身の塩出宇助先生の薫陶を受けて昭和8年国士館専門学校に入学し専門家の道を志す。国土館では斎村五郎先生をはじめ、大島、岡野、小野、小川、堀口の各先生、大沢、馬田先輩などの指導を受ける。昭和12年国士館卒業とともに岸和田市の南海商業学校、兵役をはさんで奈良県立磯城農学校に奉職。戦後は大阪で種苗園芸店を開業。昭和27年南大阪剣道同好会結成。同年吉田誠宏先生の門人となり昭和54年に亡くなられるまで教えを受ける。昭和45年長正館創立と同時に小野十生先生から小野派一刀流組太刀を3年間にわたって指導を受ける。昭和46年年宗家笹森順造先生、同48年小川忠太郎先生より一刀流の指導を受ける。昭和48年笹森順造先生より長正館が一刀流道場として認可される。昭和51年大阪府剣道道場連盟を結成し理事長に就任。現在大阪府剣道連盟審議員・師範・常任理事、大阪府剣道道場連盟副会長、大阪税関師範、修道館師範、長正館館長。昭和45年剣道八段、同52年剣道範士。 |
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大阪・天王寺から近鉄南大阪線で五ツ目に矢田駅がある。高架の線路の下を進行方向へ数分歩くと、左に広場があり、『長正館』という横書きの看板が見える。道場の玄関を入ると、館長長井長正範士が迎えて下さった。一刀流道場とあって、壁には木刀が掛けられ、故笹森順造先生(一刀流宗家。範士八段)の書などもかかげられている。範士は大正四年、奈良県北葛城郡広陵町で生まれ、県立畝傍中学に入学、一年生のときから剣道を始めた。 「剣道の他に書道、絵画にも興味を持ったが、いずれも中途半端でした。三年生のとき剣道初段をいただいてから、剣道一本にしぼってやりました。東京出身の陸軍戸山学校を出た塩出宇助という人格円満な立派な剣風の先生に教えられました。四年生の末でしたが、『塩出先生、私剣道が先生のおかげで好きになりました。一所懸命やろうと思っています。専門学校に行きたいんですが、どうですか』と伺った。『そうだな、お前の頭ではもうちょっとというところで高等師範は難しい。武専の方は、非常に強くて、よほどのものでなければ講習生に入ってやらなければいかん。戸山学校は斎村先生に指導に来ていただいているが、立派な先生で得るところがある。――で、国士館が創立されて間もない頃だし――お前の頭では、むしろ東京に行って、国士館でやればどうだ。入学試験は問題ないし、お前ならやってゆける』そうですか、ということで国士館を選んだ」 「国士館生活を、一般的に言いましたら、全員が寮生活で、喜怒哀楽を共にした、それが今になって考えてみると非常に得るところが多かったと思います。剣道の技術面で言いましたら、武専と同じように切り返し、かかり稽古を一所懸命やりました。それ専門で、初年兵係は小川忠太郎先生で、ご薫陶を受けた。基本に徹したご指導で、試合は全くやらない。例えば、たまに東京の学連の試合に行きましても、負けたことを言わずに、突いてやったとか、そういうことを自慢している。非常に大らかな、大技のしっかりした稽古で、それがよかったなと思うわけです。精神面では、やっぱり国士館そのものの正義、堅牢、見識、気合というのが学内にみなぎっておりましたし、剣道で言えば斎村先生を中心に、大島治喜太先生、岡野亦一先生、小野十生先生、小川忠太郎先生、大沢衛先輩、馬田誠先輩などから、一味違う立派な剣風をいただいたんじゃなかろうかと思います。私が四年生の卒業時から、堀口清先生のご指導もいただきました」 |
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2)客に教えられる 範士は、卒業すると大阪府岸和田市の南海商業学校に奉職するが、昭和十四年一月、奈良連隊に入隊し、予備士官学校を経て渡満した。昭和十七年に除隊、翌十八年に奈良県立磯城農学校に奉職して間もなく応召、陸軍大尉で終戦を迎えた。戦後は昭和二十一年、大阪に出て種苗園芸店を開業するのであった。 「戦後、剣道復活まで見通しが暗かったので、今までの職を思いきって放棄して大阪に進出し、かつて農業学校に奉職しておりましたとき勉強した経験を生かし、種苗園芸店を開業しましたが、失敗の連続でした。そのため、およそ二年間は赤字でしたが、幸い家内が学校に勤めておりましたので、その給料で何とかまかなっておりました。そのうち、熱心なある農家の方が皆に『長井は真面目に一所懸命やっとる。われわれでええタネ採って、それを売らしたれ』と、宣伝してくれ、三年目にして漸く店も芽生えてきました。 同業者も、初めは武家の商法勤まらずといった感じで見つめていたようでしたが、私が商売人になりきって努力している姿に、みんな見直していただき、よいタネを廻してもらうようになり、自然に皆の信用も厚くなって店は栄えてきました。しかし、この陰には家内の並々ならぬ内助の功があり、今なお忘れることはできません。学校から帰るなり、早速モンペにはきかえ『さあ、剣道に行ってらっしゃい』と、バトンタッチしてくれたものです。それで私も、家内の帰る時分にはちゃんと夕ご飯をこしらえて待っていました。でも当初は私もまだ若かった。今だに覚えておりますが、お客さんに大変申し訳ないことを言ったものだと、つくづく反省していることがあります。 自分のひとことが、どれだけあの人の心を傷つけたか、と思うと、えらい申し訳ないことを言ったものだと慚愧に堪えませんでした。それと同時に、常連のお爺さんに、いいことを教えていただいたことを感謝し、幾重にもお礼を申し上げました。あの三波春夫じゃないけれど、お客さんは神様です。お客さんがお金を持ってわざわざ店へ買いに来て下さる有難さを忘れて、つい自分だけの調子で高飛車に出たのは、神様を冒涜したことになると、已れの罪深さに愕然といたしました。 範士は、種苗園芸店を営みながら、昭和二十七年には田辺署の道場を借りて、南大阪剣道同好会を結成し、剣道を続けていた。 |
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3)吉田誠宏先生との出会い 昭和三十五年のことであった。範士は吉田誠宏先生の門をたたくことになった。 「商売がうまくいかず、また同窓の剣友達が夫々専門の道を歩んでいる姿を見るにつけ、何遍か商売を止めて、本職の道に入ろうかと悩んだものでした。その時、救っていただいたのが吉田誠宏先生でした。かねがね斎村先生におうかがいしていたんです。大阪には吉田誠宏という立派な先生がおられる。特に精神面での修養は、吉田さんの右に出る者はあるまい、折りを見て指導を受けなさい、と言われておりましたので、急遽吉田先生の門をたたきました。昭和三十五年の夏でした。吉田先生は屋敷内に広い畑を持っておられ、自給自足の生活をしておられたので、ちょうど幸いと、行くたびにタネや苗を持って行っては教えを乞いました。ある日のこと、このタネは今播くのですと偉そうに言うと、『そうじゃない。タネを預けるんだ。太陽の恩恵を蒙って土に一時タネを預けるんだよ。そしてわが排泄物を土地に還元して育てあげ、食べさせていただく。これが剣道家として考えねばならんところ。よく判ったか』と教えられ、先生の思慮深さに敬服いたしました。 たら五分かそこらだったと思いますが、三十分も一時間も待たされた気がしました。『お前判らんやろけどな、一つ言うと、この人形は無想や、無念無想ということは何も考えておらん。その無念無想の人形を、対々で、無念無想で思わずに打てるか』と。はあーと感心いたしました。またある日のこと、真剣でハッ、ハッと刀を振っておられた。そして『長井、本当に斬れるというのは、空気のサッという音で判るんだ』と。偉いことをいいよる人だなと思いました。 それ以来、時々吉田先生に連れていってもらい、八幡の円福寺へ坐禅を組みに行きましたが、道中よく話された中に『この頃中学生が一年やそこらですぐ気安く初段を受けにゆくが、禅ではそんな甘いもんじゃない。打てば鳴る、打たぬ片手の音を聴け、と。これは剣道でいうなら、先ず入門の初段の問題で、禅ではこの問題が一年の公案だ。どうだ判るか。如何に剣道では初段を安易に考えているか判るだろう。現在の剣道では悩むばかりで、つまるところ禅に頭を下げにゆくのが落ちである。俺の今の心境で言うと、剣道は禅より上でなければならんと考えている。剣は剣、禅は禅である。剣禅一如は悟りの境地にいったときにいう言葉だぞ。剣道は相手の打ちに応ずる技を修行するのである。あの沢庵と但馬守の話、知っているであろう。沢庵に但馬守が剣道の極意を見せてもらいたいと言われたとき、但馬守は小雨の降る庭先の桜の木の枝を、雨にも濡れず、早わざで漸って見せた。その後で、沢庵はやおら立ち上がり、先ず傘をさしてゆっくり歩いていって枝を折り、少しもそつのないようにして座敷へ上がって言うには、「貴殿の早わざもよいが、し損じることもある。早わざばかりが極意ではなかろうが」と言った。これから剣禅一如という言葉が始まった。つまり剣の方から遠慮して禅を尊重していった言葉だ。だから禅より剣が上であるためには、もっと修養を積まねばならないんだよ』と、言い聞かされた。私は、吉田先生から数えきれないほどの精神面のご指導をいただきました」 |
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4)一刀流を学ぶ 昭和四十五年四月、現在の東住吉区矢田富田町に土地をもとめ、道場が建設された。弟子たち皆が集まって創った道場であった。そして、弟子たちが考え出した道場名が『長正館』であった。これは、長井長正の“長正”をとったものであった。長く正しく生きるという意味が含まれていた。範士は、この道場で大人の弟子や少年たちの指導にあたることになった。その頃であった。恩師小野十生先生が訪れて、一刀流の形を教えることになった。 「私の一刀流の修行は、まだ十五年しか経っておりませんが、今になって本当に一刀流を習ってよかったと思っています。初めは、道場を開いたがために、はるばると東京から小野十生先生がやって来て、なんで一刀流を習わんならん。国士館も出たことだし、八段にもなったし、と心中いらんことと思って悩み続けておりました。それから数日経って、吉田先生を訪ねましたところ、『長井、いったいお前は国士館で何を習って来たんだ。今のお前には蹲踞してから立って構えたときの理想がない。お前に一刀流を授けたい小野君の気持は到底判るまい。古流の形をやらねば、お前には本物の剣道が判ろうはずがない。小野君の道に対する温情に、涙を流して報恩の誠を尽せ』と言い聞かされ、初めて眼が覚め、それ以来小野先生は、私のために、いやこの長正館の道場へ、一刀流を残しておきたい。それよりも、もっと広く関西に一刀流を残しておきたいという先生の奥深い、しかも偉大なる温情に感極まり、以来三年間、店もそこそこにして、組太刀の稽古に励みました。しかし、初めのうちは組太刀の形のあと、やれやれと思って帰ろうとすると、先生は黙々として面をかぶっておられるのです。私は形だけでもふらふらなのに、まだこれから稽古かと思うと、気が遠くなってしまいました。それでも仕方なく、面をかぶって先生に切り返し、かかり稽古をお願いし、やっと放免され、夢遊病者のように、綿のようになった体を引きずって店も閉めたまま夕方の稽古まで寝込んだことが何回もありました。 その後、長正館は小野派一刀流の道場として認可を受け、長井範士によって関西方面での一刀流指導が続けられている。 |
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5)一刀流の真髄 各流派において、組み太刀がたくさんある中で、その真髄、精神は一本目に集約されていると言われる。範土にそのことを聞くと、木刀を持ってきて、構えから大きく振りかぶって面を打ってこいとおっしゃる。道場に立って、面に打ち込んでゆくと、あっという間に打ち込んだ木刀は落とされ、こちらの面が打たれている。 「とにかく、先ず具体的には陰刀の構え。これは敵の構え(仕方)を押さえながら、常に進みとらえる心を秘蔵する構えである。陰刀の尊さは、刀と足遣いに真実を蔵し、相手に知らさずに勝つところにある。その打方の位が陰刀で、陰の構えで進む。そのときに打たれたくない、負けたくない、殺されたくないという心を切り落して、心気でグッと攻めてゆく。打方は相手を見据えて生死の間に入るや、ここぞとばかり大きく振りかぶって、やや袈裟切りに相手の面を打ってゆく。するとその上太刀をとって、上太刀というのはまだそれより倍大きく振りかぶるような気持ちで相打ちで切り落すことで、左の鎬で摺り落して、そのまま一拍子で、相手が遠ければ喉を、近ければ面を打ってゆく。これが『一つ勝』。一刀流は実は百七十本あります。主に私は百本教えていただいたんですが、一刀流は切り落しに始まって、切り落しに終るんだと。すべて切り落しだと。だから自分というものを、切り落すところから始まれということです。二番目には、その応用として出端を、心か起こるときに、ズッと乗る。もう少し段階をおとしますと、相手が来るときに、相打ちにゆく。乗り面というのですが、来たらズバッとゆく。もう剣道はそれが真髄だということを一刀流は教えています。古流の形には、何本目何という名称があります。その名称の中に精神があります。今の日本剣道形は各流をミックスした非常に立派な形でありますが、名称がつけられない。そこに少し難点があります。 |
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6)己れの心を切り落す 範士は、一刀流を学ぶことによって、計り知れないほどのものを得た。本当の剣道とはこういうものだと。 「一刀流をやれば、年がゆくにしたがって、ますます冴えてくるのではないかと思います。具体的に言いますと、攻めてゆくだけで、自分の調子で小手、面とか打つ。六十代ぐらいまではそれでいけるでしょうが、そんなものではありません、昔の真剣勝負は…。話は変りますが、中倉範士が、体さばきの大切さを書いておられました。これをやることによって、今日年老いても楽に稽古できるということを。やっぱり九段の先生は違うと思いました。私思いましたのは、私自身、左足がいかに大事であるかということを身をもって体験しました。それは、おととし家内が箱根へ行ったとき、御殿場の洞窟が凍っており、滑って右大腿骨を複雑骨折してしまいました。お前よく考えて見い、ころんだとき左足滑ったのと違うかと。いろいろ考えてやっぱり左足で滑ったと言います。左足で滑って反対の右大腿骨を折りました。 |
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